【第4話】「留年」は「人生最高の出来事」だった

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【第3話】「留年」は「人生最高の出来事」だった

 

僕は4年生の12月に応援団を引退してから、
1月、2月、3月と家に引きこもっていた。

 

僕は4年生の9月から一人暮らしをしていた。

 

なので、本当に家に1人、朝から晩まで
外に出ずに塞ぎ込んでいた。

 

今思えば、そんなことをすれば
気分が重くなるのはわかる。

 

家から出て、外の空気を吸った方が
気分転換になるのだってわかる。

 

でも、頭で分かってても、できなかったのだ。

 

家に引きこもり、mixiやfacebook、
Twitter上で卒業を間近に控えた同級生たちが
卒業旅行の写真をタイムラインに載せまくっていた。

 

見なければいいものの、
そういうとき、やはり気になって見てしまうのだ。

 

楽しそうに旅行を満喫する友人たちを見て、
僕は部屋で一人、絶望していた。

 

「いいよな、こいつらは楽しそうで」

「どうせ俺は、自業自得で留年した大学生だよ」

 

何を見ても、ネガティブな感情しか湧かなかった。

 

ちなみに、僕にも応援団の同期から、
卒業旅行への誘いは来ていた。

 

しかし、僕はその誘いを断った。
いや、用事があるとか適当に嘘をついて、
逃げたという表現が正確か。

 

無事に卒業できた同期たちと一緒に、
旅行に行くなんて、そんなの耐えられなかった。

 

彼ら彼女らは2月の終わりに沖縄に旅行に行った。

 

SNS上に次々にあげられる思い出の写真。

 

僕にはそれが、嫌がらせのように思えてならなかった。

 

「なんでこいつらだけ、こんなに楽しそうにしてるんだよ?」

 

そんな、怒りに近い感情が湧いてきた。

 

人は追い詰められると、周囲をおとしめることで、
なんとか自分の価値を確認しようとする本能がある。

 

あの時の僕は、まさにそんな感じだ。

 

それで当時の自分を正当化するつもりはない。

 

本当に情けない、女々しい、最低の男だったと思う。

 

そんな感じで、卑屈オブ卑屈に浸っていた僕にも、
ある大きな事件に直面し、事態は急展開を迎える。

 

2011年3月11日。

 

そう、日本中が大混乱に陥った、
東北地方太平洋沖地震(東日本大震災)だ。

 

突如として東日本を襲ったその大地震が、
僕らの世代に与えた影響は大きかった。

 

日本中を自粛ムードが覆った。

 

「お祝い事」は不謹慎だとして、
全国の大学で、卒業式自粛が続々と決まっていた。

 

立教大学も例外ではなかった。

 

直前までやるかやらないかを決めかねていた立教大学も、
ついに直前で「卒業式中止」の決断を下した。

 

僕らの学年の卒業生は、卒業式に出席することが叶わなくなった。

 

その時、僕はどう思ったか?

 

・・・心の中で、小さくガッツポーズをしたのだ。

 

もうほんと、思い出してこれ書いてて本当に辛くなる。

 

僕は本当に最低最悪な人間だったと、つくづく思う。。。

 

その時の僕は、内心こう思っていたのだ。

 

「ざまあみろ!」

 

・・・いっぺん、地獄に落ちた方がいい男だ。
(まあ、卒業後に軽い地獄に落ちるのだが、詳しくは僕の電子書籍の中で語ってるのでここでは割愛)

 

同学年の友人、知人が晴れの門出を祝えないことが、
僕には「メシウマ(=この上ない喜び)」だった。

 

卒業式自体は中止にはなったものの、
卒業式が行われる予定だった日には、
キャンパス内に卒業袴を着た女性や
スーツを着た男性がたくさんやってきた。

 

彼らは違う進路に進む同期と一緒に写真を撮り、
それをfacebookやTwitterに続々とあげていた。

 

僕の応援団の同期もSNS上に写真を載せてたので、
僕のタイムラインにも、その光景は嫌でも飛び込んできた。

 

そう、もちろんその日僕は
キャンパスには行っていない。

 

家で引きこもって、その様子を羨ましく眺めていたのだ。

 

卒業したら、それぞれ離れ離れの生活になってしまう。

 

滅多に会えなくなる人と出会える、最後の日かもしれない。

 

それでも、僕はどうしても大学キャンパスに行く気にならなかった。

 

羨ましさと、妬ましさと、いろいろな感情が
入り混じって、何がなんだか分からなかった。

 

夜に、同期で最後に一緒に集まって飲もうと
応援団の同期に誘われた。

 

だが、もちろん僕は行かなかった。

 

そんなところに行こうものなら、
「晒し者」になると感じていたのだ。

 

結局、同期は僕が「留年」することは
噂では聞いたようだが、2年間留年することは知らないままだった。

 

というか、僕が言わなかったからなのだが。

 

こんなことを言ったら不謹慎極まりないが、
当時は東日本大震災の影響で、僕は助けられたのかもしれない。

 

原子力発電所の問題。
集団停電の問題。
津波の被害の問題。
余震の問題。
政府の後手後手の対応への批判、非難。

 

日本中の関心が「震災一色」に染まったおかげで、
僕みたいな留年した一介の大学生のことは、
誰も頭の片隅にすら向かなかった。

 

みんな、自分のことで精一杯になっていた。

 

中には、東京電力に入社が決まっていた同期もいたが、
その彼なんかは、モロに煽りを食らったようだ。

 

震災前は「一生安泰」と言われていたはずなのに、
震災後、入社してみたら、さっそく苦情の電話の嵐に見舞われる。

 

世間からの厳しい攻撃にさらされ、
彼が入社する前の出来事だから、
当然彼は何も関与していない。

 

なのに、入社してすぐに電話越しに罵声を浴びる日々。

 

しかも、いろいろな災難に見舞われ、
毎月の手取りは一気に14万円まで減ったのだとか。

 

彼は何も悪くないのに。

 

あまりにひどい状況に、
これはさすがに「ざまあみろ」とは思えなかった。

 

もし、震災が起きなかったら、
彼は誰もが知る一流企業で、
一生身分が保証された「安定」を手に入れていた。

 

しかし、たった1つの、誰も予想していなかった
「地震」が起きたおかげで、その全てがひっくり返ってしまった。

 

彼に比べたら、2年の留年程度で済んだ僕は、
全然マシなんじゃないかと、その時少しだけ思えた。

 

僕はその出来事を通じて、
必ずしも誰もが「安定」だと認める道が、
「保証」されていないのだと薄々気づいてしまった。

 

そして、年度が変わり4月。

 

晴れて僕の第二の大学生活がスタートしたが、
その年、僕の運命を変える出会いが訪れるとは、
僕は想像すらしなかった。

 

続く。

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竹内

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僕は作文で一文字も書けないくらいの文章オンチでした。

そして、きついこと、つらいこと、続けること、厳しいこと、
ありとあらゆる困難から逃げてきた「ヘタレ」でした。


一浪してやっと立教大学に入るも、
大学では体育会応援団リーダー部の活動で
授業をサボりまくり、2年間留年しました。


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