伝説の試合、伝説の選手、伝説のヒーローとの出会いが人生を変えた

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忘れもしない、あれは2006年の8月。

 

その時の僕は、高校3年で受験に失敗して、浪人していた。

 

その日も、本来なら予備校(東進)に行って、
授業を受けているはずだった。

 

しかし、僕は昼を過ぎても家にいた。

 

なかなか家を出ることができなかった。

 

なぜなら、その日は決勝戦で、
いっこうに決着がつかなかったからだ。

 

何の?

 

夏の全国高校野球大会、つまり甲子園だ。

 

そう、伝説の試合となった、
駒大苫小牧高校vs早稲田実業戦。

 

当時高校3年生だった、

 

田中将大選手(現ニューヨークヤンキース)と、
斎藤佑樹選手(現日本ハムファイターズ)の、

 

延長15回の末、引き分け再試合となった、
球史に残る投げ合いを家のテレビの前で見ていた。

 

僕は、別に野球にそこまで
興味があったわけではない。

 

むしろ、僕の電子書籍を読んだ人なら
分かるだろうが、僕は小学生の頃、
野球クラブを「キツい」「辛い」という理由で
1、2回練習に出ただけで辞めている。

 

家でアニメを見ていた時、
親父が仕事から帰ってきて、

テレビのチャンネルを野球中継に
勝手に変えられるのが、ムカついてしょうがなかった。

 

でも、その日は違った。

 

その時僕は、斎藤佑樹選手に釘付けだった。

 

ただのミーハー心から見ていたわけじゃない。

 

「この試合は、見なければいけない気がする」

 

何かよく分からないけれど、
何か得体の知れない衝動に駆られて、
勉強そっちのけで試合を見ていた。

 

そして、接戦の末の延長15回の引き分け再試合。

 

優勝の行方は翌日に持ち越された。

 

そして、翌日。

 

前日ほぼフルイニング投げて
かなり負担がかかってるはずの斎藤佑樹選手が、
試合後すぐにマウンドに立った。

 

あの時の甲子園は、うだるような炎天下だった。

 

想像してみてほしい。

 

あの時の早稲田実業高校には、
斎藤選手以外に、駒大苫小牧高校を
抑えらえるピッチャーはいなかった。

 

少しでも斎藤選手を休ませようと
最初にマウンドに立ったピッチャーも、
すぐに打たれてピンチになると、
やはり斎藤選手がマウンドに上がった。

 

斎藤選手がマウンドに立つと、
打者はピタリと抑えらえる。

 

かたや、駒大苫小牧高校も同じ。

 

エースの田中将大選手が投げる前は、
早稲田実業のバッターは塁に進んでた。

 

それが、田中選手が投げると、
ピシャリと抑えられる。

 

誰の目にも明らかな、
両校、エースが試合の行方を左右していた。

 

ちなみに、この大会で斎藤佑樹選手は

 

個人最多試合登板:7
個人最多投球回:69(→今も破られず)

 

で、いずれも大会新記録を樹立した。

 

誰の目にも明らかな、斎藤佑樹選手が、
早稲田実業を甲子園初優勝に導いた立役者だった。

 

僕は結局、引き分け再試合となった初戦から、
翌日の早稲田実業が優勝を決めたその瞬間まで、
その目に試合の行方を収めた。

 

「夏は受験の天王山」と言われているのに、
僕は受験勉強そっちのけで、野球部でもない、
知り合いが出てるわけでもない、その試合を見届けた。

 

引き分け再試合となった試合の最終回。

 

炎天下の中、ここまで24イニングス連続で
投げてるはずの斎藤佑樹選手が、147kmのストレートを
投球した時には、ゾクッと鳥肌がたった。

 

相手は駒大苫小牧高校の当時のキャプテン、本間選手。
(今でも名前を覚えてる)

 

そして9回裏2アウトの場面で、
最後のバッターが田中将大選手。

 

まるで漫画のような巡り合わせ。

 

しかも点差は1点差。

 

一発が出たら同点という場面で、
斎藤選手が三振に抑えて試合終了。

 

もうね、感動なんてもんじゃないですよ、このシーンは。

 

youtubeで動画を探してみたらあったので載せておきます。

 

改めてみたら、今でもこのシーンは鳥肌立ちます。

 

 

「この時のハンカチ王子はすごかったけど、今は、、、」

 

とか言う人がいます。

 

確かに、こんな「伝説の試合」なんて
やっちゃったからには、どうしても
比べられてしまうのは分かります。

 

しかし、この試合がなかったら、
間違いなく今の僕はありません。

 

僕はこの試合を見ていて決意しました。

 

「俺も、何か熱くなれることをやりたい」

「浪人して、くすぶってて、何やってんだ俺は」

「この人、俺より年齢的には1つ違いだろ?何なんだこの差は?」

 

あの時の斎藤選手は本当にかっこよかったし、
何もできてない自分がすごく悔しかったし、
すごく輝いて見えた彼には、激しく嫉妬した。

 

「でも、今さら野球始めても、小さい頃から
やってる奴にはかなわないよな。。」

 

そう思っていた矢先、
甲子園のスタンドにカメラが向いた時に
映った学ラン姿の学生が僕の脳裏に浮かんだ。

 

「あ、、、応援団、、か、、、」

「応援団って、俺の周りにやってるやついない」

「あれならスポーツじゃないし、大学からでも始められそう」

「規律が厳しい、練習が辛い、、でもそのぶん、熱くなれそうだ」

 

それまでずっと「キツい」「辛い」「厳しい」ことから逃げて、
「ヘタレ」な人生送ってきた僕は、何か最後の学生生活くらい、
熱中できることを探していた。

 

「やるなら徹底的に」

「とことん頑張れること、熱くなれること」

「選手にはなれないけど、頑張る選手を応援ならできる」

 

という理由から、僕は立教大学に合格が決まった瞬間から、
迷うことなく応援団リーダー部の門を叩いた。

 

僕が立教大学に入学したその年、
まさに斎藤佑樹選手も早稲田大学に進学していた。

 

人気が停滞していた東京六大学野球が、
その年、とてつもない盛り上がりを見せた。

 

立教の試合も、「対早稲田大学戦」だけは
観客動員数が異常なほど膨れ上がった。

 

ミーハーでも何でもいい。

 

斎藤佑樹選手のおかげで、
神宮球場のスタンドの観客数は
前年の何倍も増えたのは間違いない。

 

斎藤佑樹選手は、本当にすごかった。

 

ちなみに、大学4年生の8月。

 

愛媛県松山市で行われた
東京六大学野球オールスター戦の
応援団、野球部合同懇親会で、
斎藤佑樹選手と初めて話しをすることができた。

 

これがその時のポスター

 

 

 

ちなみに斎藤佑樹選手は、
早稲田大学時代の最後の試合となる
早慶戦も勝ち点、勝率で慶応と互角になり、
2日後に優勝決定戦に持ち越している。

 

その優勝決定戦でも見事に
慶応打線を抑えて優勝。

 

有終の美を飾り、「持ってる男」の箔をつけた。

 

あの時、彼がいなかったら、
僕はあのまま腐っていたかもしれない。

 

適当に受験勉強をして、
適当な大学に合格して、
適当な大学生活をしていたかもしれない。

 

適当に合コンして、
適当に飲み会やって、
ゆるいサークルに入り、
気がついたら卒業して、
就活して、適当な企業に内定もらい、
入社して、そこそこの給料で、そこそこに仕事をこなし、
そこそこの人生を送っていたかもしれない。

 

そんな弾力のない日常を過ごさず、
躍動感のある生活が送れた全てのきっかけは、
あの時の斎藤選手がいなかったら、実現していたとは思えない。

 

応援団に入り、練習、雑用に追われ、
ほとんど授業に出ず、2年留年したこと。

 

それでも

 

「今までこんなに濃い時間を過ごしたことはない!」

 

と胸を張って言えるくらいに、
密度の濃い毎日を過ごせたこと。

 

「応援団時代以上に熱い社会人生活を送りたい」

 

そんな思いから、ある人との出会いをきっかけに、
せっかく就活して、内定していた企業への入社を辞退し、
ビジネス経験ゼロなのに、独立起業する道を選んでしまったこと。

 

この10年間は、かなりエキサイティングだった。

 

あの伝説の試合から、10年と半年。

 

そして、これからの10年間は、
さらにエキサイティングな10年にする予定だ。

 

10代、20代が青春?バカを言え。

誰がそんなの決めた?

 

俺は70歳になっても80歳になっても、
ずっと青春するつもりだぜ。

 

ガンガンビジネスやるし、もっと稼ぐし、
もっといろんな「すごい人」に会って、刺激受けて、
影響力をつけていく。

 

自分だけが稼ぐだけじゃない。

 

周りの人も稼がせて、表情に輝きを取り戻させて、

子どもが憧れる大人をどんどん増やしていく。

 

10年前のあの伝説の試合の頃より、

そのための環境ははるかに整っているんだから。

 

ネットビジネスなら、起業のリスクは無いに等しい。

 

マジで誰でもできる。

それまでの経験とか、センスも才能も一切いらない。

 

引退した野球選手とかは、第二の人生、

絶対ネットビジネスやるべきだと本気で思ってる。

 

そうやって、日本中のくすぶった大人たちの心に火をつける。

 

大人がくすぶってたら、
子どもは大人に憧れないだろ?

 

僕もそろそろ20代最後の年になるけど、
まだまだ10代、20代前半の奴らには負けないぜ。

 

命尽きるまで走ってやるさ。

 

死ぬまで成長、死ぬまで稼ぐ。

 

年金なんかに頼るもんか。

 

自分の収入は、自分で決めるぜ。

 

もし共感してくれたら、一緒に走りましょう。

 

そして、人生楽しみましょう。

 

「斎藤佑樹はもう終わった」

 

なんて、腐った評論家連中みたいなこと言ったらオシマイだ。

 

彼はこの先、仮にどんなに落ちぶれても
僕にとってはヒーローだ。

 

ありがとう、斉藤佑樹選手。

 

いずれまた、お会いできるのを楽しみにしています。

 

竹内

 

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僕は作文で一文字も書けないくらいの文章オンチでした。

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