【第3話】「留年」は「人生最高の出来事」だった

未分類

バックナンバーはこちら

【第1話】「留年」は「人生最高の出来事」だった

【第2話】「留年」は「人生最高の出来事」だった

 

応援団は毎年、4年生の12月に引退する。

 

僕も例外ではなく、4年生の12月に引退した。

 

応援団での活動は、
いろいろ嫌なこともたくさんあったが楽しかった。

 

少なくとも僕には、大学の授業の500倍は面白かった。

 

・・・そう、大学の授業だ。

 

応援団での活動は終わってしまったので、
いよいよ目を背けてきた「現実」と向き合う時がやってきた。

 

僕は怖かった。

 

何がって?

 

自分があとどれくらい単位が残っていて、
そのためにどれくらいの期間がかかるのかを知るのが、だ。

 

僕は1月下旬の4年生の後期試験直前、
ついにそれまでクサいものに蓋をしていた
残り単位数の計算をしてみた。

 

・・・笑えなかった。

・・・100単位近く残っていた。

 

4年の後期試験を全部パスしたとして、
5年目開始時点で残り70単位ほど。

 

5年目にフルで40単位近くを取得しても、
6年目にまだ30単位ほど残っている。

 

立教大学は半年で30単位まで取得できるから、
最短で卒業できるのは6年目の9月。

 

留年、あるいは休学などの事情により、
5年目以降もキャンパスに残る学生のための
「9月卒業」が最短での卒業日だと知った。

 

いずれにせよ、同期よりも2年遅れて卒業することになる。
留年期間は最短1年半だが、2年留年するのと大して変わらない。

 

ちなみに、僕は大学に入るときに1年浪人してるので、
同い年でストレートで大学入学して卒業した同級生より、
3年遅く社会人デビューすることになる。

 

「やっぱり、1年じゃ済まなかったか。。。」

「2年分の学費、、、200万円以上。。。」

「就職できるのか俺は?てか、キャンパスどんな顔で歩いたらいいんだ?」

「現役のとき、偉そうに歩いてたけど、後輩から影で笑われたりするよなやっぱり。。」

 

その時の僕は、あまりに没頭しすぎてしまった
応援団での活動が終わってしまったことによる、
「燃え尽き症候群」にもなっていた。

 

4年生の12月に引退してから、
急に熱中していたものを取り上げられ、
僕は祭りの後のような、急激な虚無感に襲われていた。

 

そこに、ずっと目を背けてきた現実が重くのしかかってきた。

 

「1年留年しても、全然卒業が遠い。。」

「2留か、、、学生としては2流ってか?」

 

そんな自暴自棄な感情まで湧いてきた。

 

僕は応援団時代、特に最後の4年生の時は
肩で風を切るようにキャンパス内を闊歩していた。

 

学生服を着てキャンパスを歩いていると、
それだけで威圧感もあって、特別なオーラを醸し出すことができた。

 

でも、引退したらもう学ランは着れない。

 

私服を着た、威圧感も何もない、
「普通の大学生」になる。

 

いや、普通の大学生じゃない。

 

授業もテストも全部サボって、
自業自得で留年したただのニートでしかない。

 

あれだけ偉そうに大学内を歩いていたが、
もうそんな立場でもなくなる。

 

ほどなくして僕は、猛烈な被害妄想に
襲われるようになる。

 

キャンパス内を歩いたら、
後輩にひたすらバカにされている情景が
勝手に脳内に浮かんでくるのである。

 

「あの人、あれだけ偉そうにしてたけど、実は2年も留年するんだって」

「2年も?どんだけ単位残してるの?だっさーw」

「4年生の時はかっこよかったけど、もうただの留年生だね。オーラもないし」

「どこに就職するんだろうね?てか、あんな留年して、就職先あるのかなあの人w?」

 

もちろん、そんなことを言っている後輩がいたわけじゃない。

 

僕が勝手に脳内で作り上げた妄想だ。

 

だが、一度脳内で流れたネガティブな妄想は、
止まることを知らない。

 

僕は後輩に会って笑われるのが怖かったので、
大学キャンパス内を歩くことすらも怖くなってしまった。

 

当時、僕には付き合って半年くらいになる彼女がいた。

 

彼女も同じ立教大学の同学年で、
応援団吹奏楽部に所属していた。

 

彼女は理学部(今でいうリケジョ)だった。

 

彼女はというと、立教大学卒業後は、
そのまま立教の大学院に進学する予定だと言っていた。

 

しかし、彼女が所属する理学部は、
実験1つ落とすだけで留年が即決まってしまう、
なかなかシビアな学部だ。

 

対して、僕が所属していた社会学部は、
立教生の中でも

 

「呼吸をしてるだけで単位が取れる」

 

とバカにされるくらい、
単位を取るのが簡単な学部と噂された。

 

その言葉を聞いたとき、僕は全く笑えなかった。

 

むしろ

 

「俺は呼吸をしてなかったんだろうか」

「じゃあ、なんで今こうして生きてるんだろうか」

 

などと感じたものだ。

 

さて、そんな彼女の卒業発表日は、
2月の後半だった。

 

そこで卒業できるかどうかが発表される。

 

僕は彼女から連絡が来るのを待っていた。

 

昼過ぎに、僕のガラケーに彼女からのメールが入った。

 

無事に卒業が決まった!という連絡だった。

 

すごく喜びに満ち溢れたメッセージだった。

 

僕は、それを見て時間を空けてから

 

「おめでとう!」

 

とだけメッセージを送った。

 

なぜ時間を空けたのか?
それは、僕は彼女の「卒業決定」を素直に喜べなかったからだ。

 

・・・内心、僕はガッカリしていた。

 

彼女が卒業できなければ、
僕だけがみじめな思いをしなくて済む。

 

そう、僕はその時彼女が「道連れ」になることを
実は心のそこで願っていたのだ。

 

・・・今考えても、男としても人間としても最低だった。
これを書きながら、自分がいかにクソ人間だったかを痛感する。

 

それくらい、その時の僕は精神的に追い詰められていて、
気分が暗くなり、明るい報告に対して、喜べなかったのである。

 

「お前だけ先に卒業するのか」

「いいよな、お前はちゃんと授業出たもんな、真面目だもんな」

「俺は授業出なかったし、テストだってサボったし、自業自得だからな」

 

卑屈、卑屈、卑屈の極みだ。

 

その時の僕は、「卑屈」が服を着て歩いているような、
まさにそんな表現がぴったりな人間だった。

 

女々しいにもほどがある。

 

こんな男を好きになる女性は、
全世界探してもいないはずだ。

 

自分でも、その時の自分がいかに
最低最悪の男かは自覚していた。

 

しかし、それでも人の成功を素直に喜べない、
不幸を願ってしまう、クソみたいな衝動が抑えられなかったのである。

 

人は、自分が上手くいっていないときに、
身内の成功は素直に喜べないらしい。

 

逆に、自分が上手くいってないのに、
身内の成功に心から拍手ができる人は、
かなり人間性が磨かれた人間だと思ってもいい。

 

僕はうわべでは彼女に賛辞を送っていた。

 

しかし、内心では

 

「裏切り者!」

 

と叫んでいた。

 

口には出さなかったその態度は、
別の形でちょくちょく彼女に伝わった。

 

彼女と一緒にいる時も、
彼女に冷たく当たったり、
軽くあしらったりしてしまうのだ。

 

彼女の卒業が決まってから、彼女が卒業するまでの間。

 

僕は彼女に

 

「ねえ、怒ってるの?」

「私、何か怒らせるようなことした?」

 

と涙目になりながら何度も聞かれた。

 

僕はその度に「別に怒ってないよ」と返した。

 

しかし、隠そうとしても隠せない、
その醜い心は、態度に出てしまっていたのだろう。

 

3月の上旬、雪の降るキャンパス。

 

キャンパス内の理学部棟から
出て来る彼女を僕は外で待っていた。

 

その後、彼女と合流したものの、
途中、耐えきれなくなった彼女は泣いてしまった。

 

「竹内がなんでそんなに怒ってるのかわからない」

 

彼女にそう言われても、僕は何も答えられなかった。

 

まさか、

 

「お前だけ先に卒業してしまうことが嫌で、八つ当たりしてるだけ」

 

なんて、本音が言えるはずもない。

 

これは、この文章を書く直前に知ったことだが、
パートナーの留年がきっかけで、
別れ話に発展したカップルは、わりといるらしい。

 

googleの検索窓に

 

「留年 彼氏」

 

と打ち込むと、検索候補に

 

「留年 彼氏 別れ」

 

が一番上に来ることからも、
多くの女性が、検索してることがうかがえる。

 

自分の彼氏(or彼女)が留年してることが、
そんなに嫌なことなんだろうか?

 

友達に自分の彼氏(or彼女)が留年してると
告げるのが、そんなに嫌なんだろうか?

 

僕は彼女には、僕が留年することを
他の同級生に知られる前に事前に告げていた。

 

その時彼女は、別に全く気にしないでいてくれた。

 

むしろ、彼女は大学院に進学したら、
2年間は大学に残るから、卒業後も一緒に居られると喜んでいた。

 

自分の彼氏が「留年生」だということは、
全然気にしていないようだったし、
彼女がそういうことを気にしない人なのは、
僕にだって分かっていた。

 

それでも、当時の僕は自意識過剰で、
自分のプライド、見栄を守ることに精一杯で、
そんな心の広い彼女に八つ当たりをしてしまっていた。

 

ここから僕は、精神的にも肉体的にも
負のスパイラルに突入していくことになる。

 

続く

【第4話】「留年」は「人生最高の出来事」だった

 

バックナンバーはこちら

【第1話】「留年」は「人生最高の出来事」だった

【第2話】「留年」は「人生最高の出来事」だった

 

竹内

=================================


僕は作文で一文字も書けないくらいの文章オンチでした。

そして、きついこと、つらいこと、続けること、厳しいこと、
ありとあらゆる困難から逃げてきた「ヘタレ」でした。


一浪してやっと立教大学に入るも、
大学では体育会応援団リーダー部の活動で
授業をサボりまくり、2年間留年しました。


そんな僕でも、立教大学卒業後、
起業して2年間で10億円以上の売り上げを
文章だけで叩き出すことができました。


一度も会ったことがない人にも、
50万〜100万のサービスがバンバン売れました。


文章だけで一度も会ったことがない女性を
落とした経験もあります笑


ちょっと意味わからないですよね?


でも、僕に何か特殊能力があったわけではありません。


ただ、「ある人との出会い」と「普通に生きてたら知れない情報」を知ることで、
僕は2年という短期間で生まれ変わったかのように、人生を変えることができました。


結局、「知ってるか知らないか」なんですよね。
能力や才能やセンスではなく。



でも、それは普通にネットを検索しても出てきません。


本当に人生にインパクトを与えるような情報って、
無料の検索手段使ったくらいじゃ、手に入らないんです。


でも、ちゃんとした「人との出会い」があれば、
誰でも手に入れることができるし、「知るだけ」で
いま何歳だろうと、誰にでも習得できることなんです。


「普通の人が知らないこと」を知るだけ。
それだけで、僕は自信もお金も人脈も全て手に入れることができました。



以下のリンクから、僕がいったいどうやって
自信、お金、人脈ゼロの状態から今のステージまで
引きあがることができたのか?それを全て無料で公開しています。


2年で10億稼いだ竹内秀敏の人生逆転ストーリー

=================================